〜七月の雨に濡れた樹の下で〜
シトシトと、シトシトと。
静かに、雨が降っている。
季節は、夏。
初夏の暑さもまだ残っているこの時期。
梅雨と呼ばれるこの時期が、僕は好きだ。
地面に降り注ぐ雨の音を聞くのが、好きだ。
もしかしたら、雨そのものが好きなのかもしれない。
だから、僕はこうして。
こうして、傘も差さずに歩いている。
傘がないわけじゃないけれど。
なんとなく、雨に当たりたい気分になったんだ。
だから、こうして。
シトシトと、シトシトと。
静かに雨が降り注ぐ中を。
僕はこうして、傘も差さずに歩いている。
思えば、僕が雨を好きなのは、彼女も雨が好きだったからなのだろうと。
僕は、遥か彼方。
今はもう、手を伸ばしても届かない、記憶の欠片を想い起こす。
それは、三年前。
まだ僕が、十七才だった時の事。
季節は、今と同じ、夏だった。
時期も、今と同じ梅雨。
朝から雨が降っていたあの日。
あの日、僕は小さな小さな旅に出た。
なんてことはない、ずっと代わり映えのない日常の中で暮らしていたら。
ふと、どこか遠い所へ。
行った事のない、所へ。
行ってみたくなったんだ。
でも、遠くへ出かけられるようなお金も持っていなかったから。
雨がしきりに降り注ぐ中、僕は傘も差さずに、自転車を走らせた。
途中で、何度も滑って、転びそうになったけれども。
何故か不思議と、引き返す気は起こらなくて。
どれくらいの時間、漕ぎ続けただろうか。
僕は、小高い丘を、上っていた。
その丘の頂上には、一本の大きな樹が立っていて。
だから僕は、その樹がそこから見ている景色を見たくなって。
必死に、自転車を漕ぎ続けた。
そして、ようやく。
僕は、その丘の頂上に辿り着いた。
そこで、僕は彼女と出会ったのだ。
────────それは、忘れられない、かけがえのない、出会いだった。
彼女は、その大きな樹の根元に寄り掛かって、そこから見える景色を眺めていた。
雨がしきりに降り注ぐ中、傘も差さずに、地面に座り込んで。
肩まで届く程度の黒い髪は、雨に濡れて、キラキラと。
どこか遠くを見つめている、その横顔に。
見惚れて、いた。
それは、きっと。
一目惚れ、だったのだろう。
どこか神秘的な雰囲気を身に纏ったその少女に。
ここではない、どこか別の場所へ思いを馳せているその横顔に。
だから、僕は思い切って、声をかけてみる。
“キミは、ここで何をしているの?”
少女は、僕の声に驚いたように振り返ると。
不思議そうな顔で、聞き返してきた。
“アナタこそ、ここで何をしているの?”
キラキラと、澄み切った、黒い瞳に覗き込まれて。
僕は、その答えを、口にする。
“この大きな樹が見えたから、この樹と同じ景色が見たくなって”
そう答えると、彼女は楽しそうに。
本当に楽しそうに笑って、言った。
“それじゃぁ、私と同じだね”
彼女も、ここから見える景色が見たくなって来たのだと言う。
その答えに、何故か僕は嬉しくなって、そのまま彼女の隣に腰を下ろすと、景色に目をやる。
別に、特別な景色ではなかったけれど。
ただ、素直に綺麗な景色だと思った。
どれくらい、そうして景色を眺めていただろうか。
唐突に、彼女が話しかけてきた。
“アナタは、どこから来たの?”
その質問に僕が答えると、彼女は小さく笑って。
“それじゃぁ、随分遠くから来たんだね“
そう言った。
僕が同じ質問をすると、彼女はここに住んでいるのだと言った。
そして、彼女は綺麗に微笑むと、言った。
“少しだけ、話さない?”
僕は頷き、少し姿勢を変えると、もう一度座り込む。
彼女はそれを見てまた笑い、口を開く。
“アナタは、雨って、好き?”
突然の質問に、少し戸惑いながらも。
僕は、思ったままの、答えを返す。
“別に、好きでも嫌いでもないよ。普通、かな”
すると、彼女は少し寂しそうに笑いながら、言った。
“私は、雨って好きだな。雨が地面に当たる音って、綺麗だと思わない?”
そう言って、彼女は。
おもむろに立ち上がると、クルクルと、回り出した。
雨を吸い込んで重くなったスカートが、まるでドレスのように。
彼女と一緒に、クルクルと。
その光景は、とても神秘的で。
凄く、綺麗で。
クルクルと回りながら微笑んでいる彼女が、凄く可愛らしいと思った。
彼女は再び座り込むと、その後も、いろいろな質問をしてきた。
どうやら、彼女はあまり人と会う事のない生活をしているらしい。
だから、僕は。
彼女がこの一時を楽しいと思ってくれるように。
いろいろな事を、話した。
それは、世間話だったり。
あるいは、僕の暮らしについてだったり。
はたまた、僕の周りにいる人達の事だったり。
本当に、いろいろな事を話した。
やがて、空が赤く染まり始め。
僕は、彼女に別れを告げる。
“そろそろ、帰らなくちゃ”
そう、僕が言うと。
彼女は、寂しげに。
悲しげに。
名残惜しげに。
僕の顔を、見つめると。
微かに震える手を僕に伸ばしてきて。
そっと、僕の頬に触れる。
“また・・・会えるかな”
彼女は、そう言って。
僕の瞳を、覗き込んでくる。
“きっと、また。必ず、会えるさ”
僕がそう、答えると。
彼女は、安心したように。
目に涙を浮かべたまま、柔らかく、微笑んで。
一瞬、顔を近づけて。
──────唇が、触れ合う。
ほんの一瞬の、しかし、とても長く感じられた、キスを交わし。
唇を離すと、彼女は小さく微笑み。
愛しげに。
恋しげに。
名残惜しげに。
ほんの一瞬、僕の服の袖を掴むと。
その手を離し、小さく手を振る。
僕に向かって、小さく手を振る。
僕はそんな彼女を何度も振り返りながら。
丘を、下り。
雨が降り注ぐ中、傘も差さず。
自転車を漕いで。
それは、彼女と初めて出会った日の記憶。
それは、彼女と最後に出会った日の記憶。
次の日、僕は家の事情で引っ越した。
とても遠い所に、引っ越してしまった。
だから、彼女との約束の場所には、その日以来一度も行けなかったけれど。
僕は、三年ぶりに来たその町を。
思い出に浸りながら、歩いていく。
雨が降り注ぐ中、傘も差さず。
あの時の自転車は、今はもう壊れてしまったから。
ゆっくりと、ゆっくりと。
歩いていく。
丘を登ると、そこには相変わらず大きな樹が立っていて。
大きな樹の根元には、以前と変わらぬ横顔で。
彼女が、座り込んでいた。
どこか神秘的な雰囲気を身に纏ったその少女に。
ここではない、どこか別の場所へ思いを馳せているその横顔に。
僕は小さく微笑みながら、彼女に声をかける。
“キミは、ここで何をしているの?”
少女は、僕の声に驚いたように振り返ると。
嬉しそうな顔で、聞き返してきた。
“アナタこそ、ここで何をしているの?”
キラキラと、澄み切った、黒い瞳に覗き込まれて。
僕は、その答えを、口にする。
“この大きな樹と、キミが見えたから。この樹と同じ景色を、キミと一緒に見たくなって”
そう答えると、彼女は楽しそうに。
本当に楽しそうに笑って、言った。
“それじゃぁ、私と同じだね”
そうして、僕と彼女は。
大きな樹の生えた丘の上で、再び出会った。
それは、いつまでも変わらないでいて欲しいと願う。
きっと、どこまでも続いていて欲しいと思う。
夏の日の、思い出。
雨が地面に降り注ぐ梅雨に出会った少女と、僕。
一人と独りが二人になった、アルバムの一ページ目。