〜八月の海に光る風〜
サワサワと、ソヨソヨと。
穏やかな風が、私の顔に吹き付けてくる。
柔らかな風が、私の頬をくすぐりながら、通り過ぎる。
それは、とある夏の日の事。
学力試験も全て終わり、自由になった午後の時間に。
私は、一人で海を見に来ていた。
何故、というわけではないけれど。
そう、あえて理由を挙げるなら、海の香りと共に吹き抜けるこの風。
この風に当たるため、なんだろう。
穏やかな風は、サワサワと。
柔らかな風は、ソヨソヨと。
私の髪を舞い上げながら、ゆっくりと優しく、吹いている。
“んーー、良い風ぇーー”
私はそう口に出して言い、体を伸ばしながら立ち上がる。
海を見ると、穏やかで、緩やかな。
小さな細波があるだけだった。
だから、それを見て、私は泳ごうと。
そう、思った。
“テストも終わったし、こんな暑い日だもん、泳がないとねー”
言いつつ、纏っていたパーカーと短パンを脱ぎ捨てる。
履いていたサンダルも脱ぎ、重し変わりに服の上に載せ。
私は去年買った、少しだけ小さくなってしまった水着と一緒に、海に向かって走り出す。
白く、キメ細かい砂が足の裏に食い込むのが気持ち良くて。
そのまま、海に向かってジャンプする。
ザバーン、と。
良い音と一緒に、海の水が、私の体を包んでいく。
冷たい水は、陽に当たって熱を帯びた肌には心地良く。
私はそのまま、泳ぎだす。
私の手は、まるで魚のように。
水を切り。
水面を跳ね。
ただただ、幼子のように。
泳ぐ事に、夢中になって。
どれくらい、そうやって泳いでいただろうか。
空の色も傾き始め、波も強くなってきて。
だから、私は泳ぐのを止めて、白い砂を踏みながら。
服を置いた所まで、戻る。
そこには。
一人の少年が、いた。
年は、私と同じぐらいだろう。
歩いてくる私を見て、小さく微笑みながら。
彼は、小さく口を開く。
“おかえり。泳ぐのは、楽しかった?”
少年の問いに、私も笑って、答える。
“うん、楽しかったよ。キミも泳げばよかったのに”
そう、答えて。
私は水着のまま、少年の隣に腰を下ろす。
“そういえば、テスト、終わったんでしょう? どうだった”
少年は色素の薄い瞳に、紅い陽と、それを反射して輝く、蒼い海を映して。
小さく首を傾げながら、そう尋ねてくる。
“んー、まぁまぁかなぁ。思ったより、悪くはなかったよ”
私も黒い瞳に、紅い陽と、それを反射して輝く、蒼い海を映して。
小さく笑いながら、そう答える。
初めて彼と会ったのは、一年前。
今日と同じ、夏の日に。
私は、親と喧嘩をして、家を飛び出してきた。
その時に来たのが、この海だった。
私がそこで膝を抱えて、泣いていた時。
声を掛けてきたのが、彼だった。
私と同じくらいの年。
だけど、その瞳には大人びた知性が浮かんでいて。
だけど、どこかまだ幼くて、子供っぽくて。
そんな彼に、私は。
気付いたら、全てを話していた。
親と喧嘩した事。
それで、家を飛び出してきた事。
何故親と喧嘩したか。
本当はどう思っているか。
涙をボロボロと零しながら、全部話した。
そんな私の言葉を、彼は静かに聞いてくれて。
聞き終わった後、優しく私の頭を撫でて。
どうすれば良いか、教えてくれて。
そんな、他の人が聞いたら、なんて事のない出会いだけど。
私にとっては、かけがえのない思い出。
思えば、その瞬間から。
私は、彼の事が。
───────好き、だったのだろう。
理屈じゃ、なくて。
理由も、なくて。
気付いたら、好きだった。
だからと言って、どうしたい、こうしたい、というわけじゃない。
ただ、一緒に座って。
海を見ながら。
日が暮れるまで。
なんて事のない、世間話をして。
そんな、今の関係が。
とても心地良くて。
だから、別に。
無理に、この関係を崩そうとは、思わない。
“このままでも、いいんだよね”
私が小さく呟くと、彼は不思議そうに首を傾げて。
すぐに、笑顔を見せて。
“このままだから、いいんだよ”
そう、答えて。
だから。
私と彼は、二人で。
小さく、笑い合いながら。
いつまでも、いつまでも。
紅い空が黒く染まるまで。
海を、眺めていた。
それはきっと、いつまでも、変わらない。
それはきっと、どこまでも、続いていく。
夏の日の、欠片。