《紅く光る僕と空の欠片》
〜終わりと始まりの木曜日〜
紅く染まった空を映し、紅く染まった瞳をそっと閉じる。
僕は、まだ昨日の雨の気配が微かに残った屋上の固い地面に寝転がり、再びそっと瞳を開く。
そこにあるのはさっきと同じ、今も変わらず、きっとこの先もずっと。ただ赤く、紅く、赫く、朱く、あかく染まった夕焼け空。
瞳の中にその複雑にうねり、くねり、混じり合い、奇怪な紋様を描いていく紅を映し込み、僕は小さく息を吐く。
──────何故、こんな事になったのだろうか。
僕は、少し前の、まだ空が青かった昼下がりのことを思い出してみる。
僕はその日の昼下がり。昼食を取るために、重い足を引きずって屋上に上ったのだ。
正直、僕は人と馴れ合うことが好きではない。
普通なら仲の良い友達なんかと一緒に学食に行ったり、購買部でパンなんかを買って教室で楽しく食べるのだろうが、生憎と僕には友達がいない。・・・いや、いないという表現は正しくないか。友達は、いるにはいる。僕は馴れ合うのは嫌いでも、人と上手く付き合えるだけの演技力がある。
健全且つ、快適な学園生活を送る為には、多少の付き合いというものは必要なのだ。
しかし、それは裏を返せば仲良く昼食を取るほど深く付き合っている友達がいないという事でもある。
それに、僕は弁当を持参している。両親とは僕が十歳の時に死別し、兄弟や親戚の当てもない僕は、二人の遺産を頼りに、これまでずっと一人暮らしをしていた。
自然、料理のひとつも覚えるわけである。
昼食代を浮かせるという意味もあって、僕は中学校の時から昼食は弁当と決めている。
なので、この日も、丹精込めて作った弁当を片手に、屋上に来ていた。この屋上は雨曝しのせいか、少し寂れたような雰囲気があって、人はあまり近づかない。
だけど、僕は逆にその雰囲気を気に入って、この屋上に足繁く通うようになったのだ。
僕以外に人のいない、少し寂しい空気が流れているこの空間が、僕は好きだった。この場所にいる時、僕は普段の演技している僕ではなく、本当の自分に戻れる気がするのだ。
等と考えながら、僕は自作弁当(制作費185円也)を貪りながら、見るともなしに空を見ていた。あぁ、空は青いなぁ・・・・・・なんて当たり前のことを考えるはずもなく、ただぼんやりと、それでいて妙に熱心に、僕は空を見ていた。そう、今思えば、きっと僕はあの時こう考えていたのだ。
──────あぁ、あの空に飛び立てたら、どんなに良いだろうか、と。
陳腐な台詞に聞こえるが、この時の僕は、真剣にそんな事を考えていた。
僕は、自由になりたかったのだ。自分を偽り、演技する事も、くだらない規律に束縛される事も、つまらない世間体を気にすることもない。ただ自由な空に飛び立ちたいと。そう、思っていた。
その時、だった。フェンスに寄り掛かっていた僕の体が、不意にグラリ、と。後ろに倒れこんだ。
「・・・・・・え?」
僕はそんな間抜けな声を出すことしか、出来なかった。
きっと、老朽化していたのだろう。フェンスが倒れ、僕は屋上から落ちたことを一瞬後に知った。
確かに、恐かった。怖かった。落ちる事も、その後に来るだろう痛みも、それとも、痛みを感じる暇もないのだろうか。
この屋上は高さにすれば四十メートルはある。
無事ということはないだろう。死ぬ確立は、高い。死にたくは、なかった。
しかし、この時。僕は確かに思ったはずなのだ。靄が掛かったような頭で。しかし妙にしっかりとした意識の中で。こう、思ったのだ。
───────あぁ、これで僕は、自由になれる・・・・・・と。
しかし、その結果、この様はどうだろう? と、僕は今の現状を改めて思い返してみる。僕はあの時、確かに落ちたはずなのだ。四十メートルの高さから。
それなら、僕は大怪我を負って病院にいるべきではないか? もしくは、死んでしまう、とか。それなのに、何故僕はこうして屋上で寝ているのだろうか。
と、ここまで考えたところで僕はひとつの可能性に思いつく。
幽霊まさか。
「・・・・・・」
句読点すら入らなかった。即答で答えが出た。幽霊? そんなはずはない。そんなはずはないんだ。
「・・・」
僕は自分の手をじっと見つめてみる。別段、普段と変わった様子は見られなかった。試しに、夕焼けの紅い光にかざしてみる。
「────っ!」
うっすらと、紅い空が透けて見えた。
震える手で、フェンスの金網を握り締めてみる。手触りは、確かに感じられた。が、それだけだった。
冷たい金属の線は、僕の手をいとも簡単に通してしまった。
僕は、震える手で。何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も。冷たい金網を握り締める。握っては、透け。その手をまた開き、握り、透け、開き、握り、透け、開き、握り、透け、開き、握り、透ける。
「あ・・・・・・ぅ」
何度それを繰り返しただろうか。
僕は、軽い絶望と共に確信していた。つまり、僕は幽霊などという、極めてあやふやで不確かな存在に成り果ててしまったのだ。なんと言う事だろう・・・。僕は自由に。やっと、自由になれたと思ったのに。
僕は結局、このままなのだ。きっとこのまま自由にはなれないのだ────────。
───────────────ガチャリ、と。
その時。
唐突に。
屋上に繋がる扉が。
音を立てて。
開いた。
「・・・・・・?」
誰だろう、こんな時間に。もう、放課後と呼べる時間はとっくに終わっているはずだろうに。
僕は、扉から出てくるであろう人物を見ようと、少し目を細めた。自慢ではないが、僕は余り目が良くはないのだ。
カツン、と。綺麗な音を立てて屋上の地面を踏み締めながら、入ってきたのは、一人の女生徒だった。
その少女は紅い空を見上げ、眩しそうに目を細めると、ニッコリと綺麗な微笑みを浮かべてこっちを見詰めて来た。
その時。僕は、今自分が置かれている状況も忘れて、その少女に見惚れた。
それぐらい、夕日を受けて淡く薄く。紅く輝くその少女は神秘的で、綺麗だった。
僕は、その子に話し掛けたいと。話し掛けて、笑い掛けて欲しいと。自分の事を見て欲しいと。
唐突にそう思った。思ってしまった。
そして、再び。
僕は自分の置かれた状況を、思い出す。
───────────僕は、もう、死んで、しまったの、だと。
良く分からないけど。
金網を透けて通してしまったという事は。つまり、この世界に拒絶されている、という事なのだろう。それはきっと、当たり前の事なのだ。僕はもう死んでいて。この世界は生きているのだから。
つまり、生きている人間に、幽霊の姿は見えない、と。
頭ではなく、感覚で。僕はそれを理解し、把握した。つまり、この少女に、僕の姿は、見えないのだ。
そう思ったら、無性に悲しくなって、僕はその場に蹲る様に座り込んでしまう。頭を抱えて、僕は小さく呟く。
「自由になりたいって思っただけなんだけどなぁ・・・・・・。そんなに、いけないことだったかなぁ・・・・・・」
「そんなこと、ないよ? 皆、誰だってそう思ってる。誰だって自由になりたいんだよ?」
「───────っ!?」
僕の呟きに答えを返すように。小さめの、それでいてはっきりと通る、綺麗な声が僕の上から聞こえてきた。僕は慌てて、顔を上げる。
「キミ・・・・・・は」
そこには、さっきの少女の姿があった。彼女は、黒目がちの澄んだ瞳で、じっと僕の目を見詰めて・・・・・・僕の?
「キミ・・・・・・・・・は。僕の事・・・・・・が?」
僕の問いに、彼女は小さく笑って、言葉を紡ぐ。
「君は・・・・・死んじゃった、んだね?」
「───っ!」
自覚は、していた。だが、それを第三者から指摘されるのは、中々に辛い物があった。だがしかし、そんな事よりも、今は。
「何故、キミは僕の事、が?」
そう聞いた時、少女が微かに。悲しげに、寂しげに、顔を歪めたのは。気のせい、だったのだろうか・・・・・・?
少女はさっきと同じように小さく。しかし、目を奪われるような綺麗な笑顔を浮かべて、答える。
「私は・・・・・・はら、霊能力者とか。そういった感じ・・・かな?」
そう言いながら悪戯っぽく舌を出して、小さく首を傾げる仕草は、それだけで僕を虜にした。
余計な言葉は、いらない。
ただ、目の前の少女が可愛いと、素直にそう思った。僕は、気付くと、涙を流していた。
「あ、あれあれ? ど、どうしたのかな? えっと、その、あ、ほら・・・泣かないでよ・・・・・・ね?」
黙ったまま涙を流し続ける僕を見て、少女は驚いたような顔をしておろおろと慌てている。そして、何を思ったのか、優しい顔で微笑むと、そっと。僕の事を、抱き締めて。小さな子供をあやす様に、優しく、優しく。背中を撫でてくれた。
「・・・・・・あぁ」
僕を包む細い腕からは、良い香りがした。温もりが。暖かさが。なにより、その少女の、混じりけの無い、素直で、純粋で、無垢で。ただ一途な優しさが伝わって来て。だから僕は。
何も言わずに、ただ静かに、涙を流し続けた───────。
島島島島島
「落ち着いた・・・・・・かな?」
少女はそう言って小さく微笑みながら、僕の肩を軽く引き寄せてくれた。
「・・・・・・ごめん。迷惑、かけちゃったね」
僕は少女に抱き締めながら泣いたことを思い出して、急に恥ずかしくなり、赤くなった顔を隠すようにそっぽを向きながら小さく呟く。
すると、少女は慌てたように大きく首と手を振りながら、言う。
「そそ、そんなこと無いよ。うん。私・・・・・・正直ね? 君をここで見た時、びっくりしたんだ。私・・・えっと、その、友達っていないから。今までずっと一人で。ほら、霊能力とか、そういった、他とは変わったことがあると、ね。だから・・・ずっと一人ぼっちで。
私、意識を持って、こうして話すことができる幽霊って、初めて見たんだよ。うん。だから・・・びっくりしたけど」
そこで言葉を切ると、上目遣いで僕の顔を覗き込んで来た。
「ど、どうしたの・・・?」
僕は自分の顔が真っ赤になっているのを自覚しながら、きわめて冷静を装って、聞き返す。
すると、彼女は一瞬、恥ずかしそうに目を逸らし、それからさっきよりも強い視線で僕の事を見詰めると、振り絞るような声で、こう言った。
「あ、あのねっ! わわ、私と、友達になってくれないかなっ!?」
「・・・・・・え?」
僕は呆気に取られ、思わず聞き返してしまう。すると、彼女はそれをどう言う意味に取ったのか、慌てたように手をぶんぶんと振りながら、弁解するように言葉を重ねる。
「ほ、ほら、えっと、その、ね? 私、友達いないから。誰か、一人でも話し相手が出来れば嬉しいな、って。あ、その為に君を利用しようとか、そういうんじゃなくてね? えっと、あの、なんて言ったら良いんだろう・・・。変な意味は無くて、その、純粋に、私と友達になって下さいっ!!!」
最後の方は、叫ぶような声だった。僕は、まじまじと彼女の顔を見詰めると、小さな笑いを漏らす。
「僕・・・死んでるんだよ?」
「そんなこと、関係ないっ! 私は・・・君と、友達になりたいんだよ」
「僕なんかで・・・本当にいいの?」
「君なんか、じゃない・・・君だから。君が、いいんだよ」
彼女は瞳を潤ませて、小さく震えながら僕の目を見つめている。僕はそれを見て、小さく笑い、言う。
「僕は、
「え・・・?」
彼女は、一瞬。僕が何を言っているのか掴み兼ねたらしい。しかし、驚いたような表情も一瞬の事。
僕の言葉を理解した彼女は、満面に笑みを浮かべる。それは、今までの中で、一番綺麗な、喜びと嬉しさに満ちた、可愛らしい笑顔だった。
「私は、
「うん・・・。こちらこそ」
そう言って、僕らはどちらからともなく笑い出す。
それは、なんて事のない、日常の一コマ。
だけれども、二度と戻らない、日常の中にある、小さくて、小さくて、だからこそとても大きな、僕達の、
僕と彼女が過ごす、その一ページ目。