〜二人で過ごす木曜日〜
「ん・・・・・・」
冷たい風が顔を撫でるのを感じて、僕はゆっくりと目を開く。
まだ薄暗いそこは、屋上だった。昨日は、結局ここで眠ってしまったらしい。
早朝独特の、湿った空気を含んだ風が、僕の髪を揺らしながら吹き抜ける。
「まだ・・・寝てるのかな?」
僕は小さく呟いて、肩に手を伸ばす。掌に触れる、柔らかな感触。
伝わってくる温もり。
見えなくても、そこにいる。
「はは・・・」
もはやこの世の住人ではない彼女と。
この世を見限った、僕。
生に未練は無く、されど共に在り続けようとする願い。それは、なんて。
「狂ってる・・・はは、ははは。狂ってるよな」
まさしく、狂っている。壊れている。
だけど。
本当に狂っているのは、その願いなんかじゃなくて。
「僕達、そのもの・・・・・・」
笑えない、冗談だ。戯言にも、程がある。まさしく、傑作。
「それが、どうした」
誰にもこの関係を、戯言だなんて、言わせない。
傑作などとは、呼ばせない。
「二人で一緒にいられるなら・・・それだけで、幸せなんだ」
だから、こうして・・・いつまでも。
そう思いながら、僕は彼女の柔らかな髪を、ずっと、ずっと、撫で続けていた。
島島島島島
「ん・・・・・・」
どれくらい、そうしていたのだろうか。
気付けば、肩にかかった微かな重みは消え、代わりに、僕の手を握り締める感触が、あった。
「塔子、さん・・・・・・」
彼女が何を考えているのか、僕には分からない。
彼女がどんな顔をしているのか、僕には見えない。
彼女が何を言っているのか、僕には聞こえない。
────────それでも。
彼女がどこにいるのか、僕は知っている。
今、この場所に。
僕の、すぐ傍。
僕の隣に、いる。
それだけで、いいじゃないか。
それだけで、幸せだ。
それだけで─────、幸せなのに。
どうして、僕の頬を、涙が伝っているのだろう。
「あぁ・・・・・・」
僕には見えなくても。
彼女に、僕の顔は見えているのだ。
僕が泣いている事を、彼女は知っている。
心配するように、先程よりも強く。
キュッ、と。
僕の手を握り締める、感触。
僕もその手を握り返しながら。
ただただ、泣き続ける。
「会いたい・・・会いたいよ、塔子さん。君が笑っているのを、見たい・・・君の優しい声が、聞きたい・・・・・・」
それは、叶わぬ事だと知っている。
知っているからこそ、強く望んでしまう。
知っていながら、なお願ってしまう。
「一緒にいるだけで幸せになれるなら・・・・・・」
僕はフラフラと、フェンスに近づく。
「本当の意味で・・・・・・一緒にいたいんだ」
フェンスを軽く片手で押すと、まるで僕が今からやろうとする事を分かっているかのように、その古びたフェンスはあっけなく外れ、地上に落ちていった。
「つまりは、そういう事だよな」
本当に生に未練が無いというのなら────。
何を戸惑う事がある。
何を躊躇う事がある。
迷いは、無い。
惑いも、無い。
「僕が生きるのは、こんな退屈な世界じゃなくて、君がいる世界だ」
だから、もう、ここには戻ってこない。
永遠に、さよならだ。
僕が一歩足を踏み出すと、ようやく彼女にも僕が何をしたいか理解できたらしい。
そして、同時に、袖が引っ張られる感覚がした。
「塔子、さん・・・・・・?」
何で彼女が止めるのか、理解できない。
僕は君と共に在ろうとしているだけなのに。
だから、僕は構わず、もう一歩、踏み出す。
後一歩で、僕は死ぬ。死ねるんだ。
なのに、彼女は。
「どうして・・・・・・? 僕は君の所に行きたいだけなのに」
「本当に、そんな事をして彼女と同じ所へ逝けるとでも?」
と、唐突に。声が響き渡り。
「・・・・・・」
僕が振り向くと、そこには。やはり、というか。何故なのだろう。神祓魔崩が、そこに立っていた。
「神祓・・・・・・どういう、意味だよ」
僕の問いに。彼は、翠の髪を風に靡かせながら、朗々と声を紡ぐ。
「貴様は、幽霊の定義を知らんのか? この世に未練があるから、魂がその地に 縛り付けられる。それが、自縛霊だ。そうだな?」
「・・・・・・あぁ」
確か、そうだったような。
「今の貴様に、未練は、あるか?」
「・・・・・・」
未練は、ない。
こんな世界に、未練なんか、あるはずがない。
「・・・だろうな。そんなお前が、今死んだ所で。辿り着くのは何も無い、虚無の世界だ。決して彼女と共に在れるなどと思うなよ?」
「・・・・・・・・・」
確かに、そうだ。
でも───、それなら。
「はは・・・酷いや。塔子さんの姿が見れないこんな世界に、未練なんて無いのに。無いからこそ、同じ世界には逝けない・・・? はは、ははははは。なんて、なんて滑稽。なんて・・・無様」
「ふん。まったくもって莫迦な話だ」
まったくだ。こんな莫迦な話、在ってたまるか・・・・・・。
島島島島島
気付けば、僕は地面にへたり込んでいた。
今の僕に、最早死ぬ気はない。
だけど、このまま生き続ける気力も無い。
「僕に・・・・・・どうしろっていうんだよ」
「ふん。貴様は何もしなくていいさ。何の為に、私がここにいる」
「・・・・・・・・・?」
神祓の言葉に、僕は顔を上げる。
神祓がここにいる、理由?
「・・・そんなの、知るかよ」
「ふむ」
僕の言葉を聴いて、彼は
「貴様は、魔術というものを信じるか?」
「・・・・・・魔術?」
魔術・・・・・・魔法・・・・・・・・・そんなものは、戯言だ。傑作だ。滑稽だ。
普通の人間なら、ソレで済ませるのだろう。
──────でも。
「・・・・・・幽霊がいるんだ。あっても不思議じゃないさ」
僕が答えると、神祓は妙に満足げに頷くと、こう言った。
「左様、魔術は確実にこの世界に存在する。幽霊をこの世界に留まらせている一要因に、魔力も大きく関係してくる。そして、だ。私は、魔術師なのだよ。魔法使いでも、魔導師でもない。れっきとした、魔術師だ。・・・いや、厳密には違うのだが」
「魔術師・・・・・・お前が?」
そんな馬鹿げた話。
そう思う一方で、どこか納得していた。
あいつの纏う雰囲気。異様なまでの存在感。
それが、理由か。
「それ、で・・・・・・・・・? 魔術で、塔子さんを生き返らせようって?」
僕が冗談交じりに聞くと、神祓は大真面目な顔で頷く。
「然り。ソレが私がこの場にいる意味だ」
「なっ!?」
その言葉に、僕は慌てて立ち上がる。
「本当、に・・・・・・? 本当に、塔子さんが!?」
「うむ。以前、貴様に言った事があったな? 館華塔子の死は、本来イレギュラーだったと」
僕は記憶を掘り返し、確かに以前そんな事を言っていたのを思い出す。
「・・・あぁ」
もしか・・・して。
「察しが良いな。左様、本来なら彼女は死ぬべきではなかった。だが、とある魔術の影響でこの島一帯の因果律が歪み、その結果、彼女は命を落とした。私には、ソレを修正する役割がある」
「それ、じゃぁ・・・・・・」
「あぁ。それではこれより、修正を開始する。因果律を、正常に。館華塔子の代替にこの学校へやってきた、救われざるも招かれざるものよ。今、この場に集え」
神祓の声は、朗々と響き渡り、あたりに薄い翠の光が差し込める。
一瞬、その光が強まり。気付けば、僕の目の前に、一匹の子犬がいた。
この子犬、どこかで・・・・・・。
「もしかして、職員室にいた子犬?」
僕の問いに、神祓は頷く。
「如何にも。これが、館華塔子の代替物。本来消え逝くべき魂だ」
「って事は、塔子さんが生き返る替わりに、この犬が死ぬ、って事?」
「あぁ。そうなるな」
「・・・・・・。・・・、・・・・・・・・・そっか」
子犬なんてあまり好きではない僕だけど。この時ばかりは、妙な気分だった。
「お前は、悪くないんだよな・・・・・・お前が、嫌いなわけじゃない」
だけど。塔子さんを生き返らせる為なら。
「ごめん、な。こんな言葉、偽善でしかないけど。僕には、お前よりも大切な人が いるんだ。だから、ここで、お別れだ」
「・・・・・・始めても、いいか」
「・・・うん。構わない」
僕は頷き、一歩下がる。
未だに僕の袖を掴んでいる彼女の手をキュッと握り締め ると、彼女も握り返してくる。
だけど、その手が微かに震えていて。気付けば僕の頬にも、再び涙が流れていた。
『我、此処ニ祈ロウ』
神祓の紡ぐ声は、呪文となり、高く、低く、響き渡り、屋上を埋め尽くす。
翠の光は屋上の上で奇怪な紋様を描く。
それは、俗に言う魔方陣という奴なのだろう。
神祓はその陣の上に子犬を置き、塔子さんにもその上に乗るように命じる。
「大丈夫・・・僕はここで待ってるから」
彼女の手が震えているのを感じ、僕が優しくそういうと、小さく握り締めるような感触の後、彼女の手が離れるのを感じた。
「乗った、な」
神祓は小さく呟き、再び朗々と呪文の詠唱を開始する。
『歪ミシ現ハ虚ロナ夢ニ。夢ハ現ニ帰ソウゾ。正シキ理ヲ胸ニ抱キテ世界ノ歪ミヲ正シ給ワン』
言葉が紡がれるにつれて、陣は光を増し、やがて屋上が光に包まれて、何も見 えなくなった。
「ん・・・・・・」
ようやく光が収まり、僕はゆっくりと目を開ける。
そこに、いたのは。
震えが、止まらない。
言葉に、出来ない。
涙が、溢れる。
あれ程までに─────、恋焦がれた。
「塔子、さん・・・・・・・・・・・・塔子さんっ!」
「奏士、くん? 私の事、見えてる? ちゃんと・・・・・・私の声、聞こえてる・・・?」
僕は涙をボロボロと零しながら頷く。
「見えてるさ・・・見えてるとも。何で、泣いてるんだろうね? はは・・・・・・凄いや。また、会えたね」
「うん・・・うん! また、会えたよ。会えたんだよ! 嬉しい・・・嬉しいよぅ・・・・・・」
気付けば、僕達は抱き締めあい。ただ、互いの温もりを感じていた。
絶対に離さないと誓いながら、僕は彼女を抱き締める。
「神祓・・・・・・本当に、ありがとう。僕・・・・・・」
「礼を言われる筋合いは無い。私は世界を正常に戻しただけなのだからな」
「それでも。本当に、ありがとう」
「神祓・・・・・・さん」
「館華塔子。貴様にも礼を言われる筋合いは無い。取り戻した命、粗末にはする なよ?」
「はい・・・ありがとう、ございますっ」
「ふんっ。それでは、これで私は退散するかな。後は二人でどうとでもするがいい」
そう言って、神祓は最後に指をパチンと鳴らしてから、屋上を出て行った。フェンスはもう、壊れていない。
「塔子、さん・・・・・・」
「奏士、くん・・・・・・」
「また、会えたね・・・おかえり、塔子さん」
「・・・うん。ただいま、奏士くん・・・・・・」
彼女が、そうやって。僕に向かって微笑んでくれている。
それが、わかる。
それだけで。
「嬉しいよ・・・・・・嬉しいよぅ」
ボロボロと涙を流しながら肩を震わせている彼女を抱き締めると、僕はいつかのように、涙を指で拭う。
俯いていた彼女はゆっくりと頭を上げると、綺麗に、可憐に、可愛らしく、微笑んで。
僕は、そんな彼女に笑い返して。まだ潤んでいる彼女の瞳を見詰めながら、ゆっく りと顔を近づける。
静かに目を瞑った彼女の唇に。
そっ、と。
自分の唇を重ねた。
彼女と交わした、二度目のキスは。涙の味がしたけれど。
とても、柔らかな彼女の唇の感触は。甘くて、優しくて、暖かくて。
「奏士くん・・・・・・・・・大好きだよ。愛してる」
いつかと同じ言葉で。彼女は僕に囁いたけれど。腕の中の彼女は消えないで。
だから、僕も彼女の耳元に囁いて。
「僕も・・・大好きだよ。愛してる・・・・・・君を抱き締めたこの手を、一生離さない」
そう、言って。
ずっと、ずっと、僕と彼女は抱きあっていた。
僕の腕の中で、恥ずかしそうに。それでも満面の笑みを浮かべる彼女と二人。
笑い合いながら。僕達は、 光る太陽と、青空を。その目に映し込んでいた。
僕達二人は。蒼く染まった空を映し、青く染まった瞳をそっと閉じて、もう一度小さくキスを交わしながら。
再びそっと瞳を開く。
そこにあるのはさっきと同じ、今も変わらず、きっとこの先もずっと。ただ青く、蒼く、碧く、藍く、あおく染まった青い空。
瞳の中にその複雑にうねり、くねり、混じり合い、綺麗な紋様を描いていく蒼を映し込み、僕達は小さく笑い合う。
僕達は、二人。幸福だった。それは、二人の時間が始まった。日常の中にある、小さくて、小さ くて、だからこそとても大きな、僕達の、幸福。
───────────僕と彼女が過ごす、その一ページ目。